ガラスピースによるモザイク壁画です。
上の画像は個人病院の待合室の壁画であり、下のは喫茶店の壁画です。場所も年代もはっきりしていません。
写真が若干色あせているので比較的初期の仕事かと思われます。
材料は色ガラスのテッセラ(モザイクピース)ですが、よく名古屋の地下鉄構内でも同じようなピースが壁画にも使われているのを見かけます。
デザイン:山田雅夫、制作:作野旦平 |
制作・デザイン:山田雅夫 |
どちらも円形の曼荼羅を思わせるデザインで、中心から放射するエネルギーのようなものを感じます。
美術の範囲が様々な分野に浸透し、以前のような境界が希薄になりつつあります。
現代美術をとおして、人々の意識が物質文明に重きをおいた時代から、精神文明に向く時代へとシフトしていく途上にあるのを感じます。
以前のカテゴリーで言う、絵画・彫刻・造形・デザイン・書画といった確固とした所有可能な概念がすでに崩れております。
活動の対象も、紙の上・壁・床・天井・建築装飾・金属・石といった空間や材料でカテゴリー化することに限界が出てきております。
近ごろでは、その概念を推し進めてきた博物館や美術館の(収集・調査・保管・教育普及)といった機能のうち保管・収集が完全に機能できない館が増えてきております。その原因は、そもそもミュージアムが成り立つ過程、すなわち物質文明の所有することに価値を見い出す植民地化時代の名残にあります。
この点思い当たるところ、最近北川フラム氏が青森の美術館館長を解任されました。とはいえ、いずれは近い将来、批判はむしろ上記の価値観に固執する人々に帰ってくることになるでしょう。
むしろ、アートと名を打たずに活動する、様々な分野における覚醒への道が新たな美を生み出す可能性があります。
たとえば、チベットの曼荼羅です。紙の上に絵の具で描くのとちがい、色のついた砂を絵の具代わりに用いるのです。
砂を特殊な管上の筆を通して床に振り落として絵柄を描いていくのです。
描く過程の動画でその様子が分かります。
その過程で我々が理解できないのは最後のところです。これは宗教儀式の一つですが、大変我々文明人に問題意識を投げかけています。
http://www.youtube.com/watch?v=sq_cpoONCCU
この曼荼羅を描き上げるのには相当時間がかかっています。にもかかわらず出来上がった直後、砂を中止にかき集めて、チベットでは川に流すそうです。
もちろん作家のエゴで、思うように描けなかったからという理由ではありません。あえて消し去ることに重要な意味があり、その精神性が我々の旧文明人には理解しがたいのです。あえてひとこと言うならば「もったいない」としかいえません。
意図的に消し去るこの行為は、絵画で言えば描いた直後に燃やしてしまうことと同じです。しかし、それは持ち去ることのできる要素があります。そのため、砂を用いること自体、最後の行為を完結するためのものなのです。
ここで、消し去るのは執着心の方であり、この行為は、美という無形のものに対する所有欲を芽生えるが瞬時に摘み取ることで、物に囚われない精神性を養う役目を演じているといえます。
ここに仏教の教えを見ることができますが、この様な行為はこれからのアートではありえるのです。ただし、その精神性が重要視されますが。
紙や壁などの絵や文字はある程度耐久性がありますが、あくまでもアートの一分野であり、今までの旧文明の日当たりが良かった時代の一形式であるに過ぎません。
にもかかわらず当然のように、どこかのミュージアムでは曼荼羅の実演後、砂をプラスチックで固めて永久保存するそうです・・・。
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